名古屋地方裁判所 昭和51年(ワ)1615号 判決 1979年5月30日
原告
木村利秋
ほか一名
被告
土田孝士
ほか一名
主文
一 被告らは各自原告両名に対し、それぞれ金九三万五〇〇〇円及び各内金八五万円に対する被告東海交通株式会社については昭和五一年八月一八日から、被告土田孝士については同月一九日から、各内金八万五〇〇〇円に対する本判決言渡の日の翌日から右支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを五分し、その二を原告らの負担とし、その余を被告らの負担とする。
四 本判決は第一項に限り仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自原告らに対し、それぞれ金一五〇万円及び各内金一三五万円に対する被告東海交通株式会社については昭和五一年八月一八日から、被告土田孝士については同月一九日から、各内金一五万円に対する本判決言渡の日の翌日から右支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 交通事故の発生
(一) 日時 昭和四九年六月一二日午後七時四五分頃
(二) 場所 名古屋市港区東海通四丁目八〇番地横断歩道(以下、本件事故現場という)
(三) 加害車 被告土田運転の普通乗用車(名古屋五五あ五九二四、以下、被告車という)
(四) 事故の 被告土田が被告車を運転して走行中、横断歩道
態様 を歩行中の訴外亡木村ちいをはね、よつて同人に傷害を負わせた。
2 責任原因
被告会社は被告車を自己のために運行の用に供していたものであり、被告土田には前方不注意の過失がある。
3 訴外亡ちいの受傷と死亡
訴外ちいは、本件事故当時七四歳五月の女性であり、本件事故により頭部挫傷、頸部挫傷等の傷害を受け、別紙のとおり日比外科病院に入院したが、同病院が自宅から遠隔地にあつたため、昭和四九年八月一三日近くの佐藤病院に転医し、別紙のとおり引続き入院治療を受けた。しかるに、同訴外人は自宅に帰りたいと懇願したため、病状が悪化したときには直ちに再入院が可能であるという事情も考えて同年一一月三〇日同病院を退院し、別紙のとおり通院の形とした。ところが、同訴外人は本件事故による治療期間中、長期間にわたつて薬物投与を受けなければならなかつたため、急性肝炎に罹患し、昭和五〇年七月一五日ばんたね病院に入院したが、その後これが激症肝炎に移行し、同病院において死亡した。以上の次第で、同訴外人の死亡と本件事故との間には相当因果関係がある。
4 損害
(一) 葬儀関係費用 六七万七八四〇円
葬儀費 五五万五九〇〇円
葬儀用ビール、ジユース 六五〇〇円
葬儀用割子弁当 一〇万八〇〇〇円
葬儀用タクシー 七四四〇円
(二) 慰藉料 五〇〇万円
仮に、本件事故と訴外ちいの死亡との間に相当因果関係がないとしても、慰藉料としては三〇〇万円の限度で賠償を求める。
(三) 訴外亡ちいは以上合計五六七万七八四〇円の損害を被つたが、同訴外人の死亡により、その子である原告両名が相続人として二分の一の相続分に従つて前主の地位を承継した。
(四) 原告らの弁護士費用 各一五万円
5 よつて、原告らは被告らに対し、本件事故に基づく損害賠償として、前記4(三)の損害額の内それぞれ金一三五万円及び右各金員に対する被告会社については本件事故発生の後である昭和五一年八月一八日から、被告土田については同月一九日から、(四)の各弁護士費用一五万円に対する本判決言渡の日の翌日から右支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実中、被告土田に前方不注意の過失があつたとの点は否認し、その余は認める。
3 同3の事実中、訴外亡ちいが本件事故当時七四歳余であつたことは認めるが、その余は争う。
4 同4の事実中、原告両名が訴外ちいの子であることは認めるが、損害の点は争う。
三 抗弁
被告土田は南北道路を北進して本件事故現場に差しかかつたところ、対面の信号機が青を示しており、たまたま、自車の左方を別の車が追い抜いて本件交差点に進入したので、被告土田もこれに続き被告車を交差点に進入させた。ところが、意外にも訴外ちいが左右の安全を確認もせず、信号を無視して被告車の直前を小走りに通過しようとしたため、直ちに左にハンドルを切つて急停車の措置をとつたが間に合わず、被告車が訴外ちいに衝突したものである。このように本件事故は同訴外人の過失に基づくもので、被告土田には何らの過失もない。
また、被告車には構造上の欠陥も、また機能の障害もなかつた。
四 抗弁に対する認否
抗弁事実は否認する。
第三証拠〔略〕
理由
一 請求原因1の事実については当事者間に争いがなく、右事実に、成立に争いのない甲第一、第二号証、乙第一号証(乙第一号証については後記措信しない部分を除く)、証人長野祐二の証言を総合すると、次の事実が認められる。
1 本件事故現場は南北方向の幅員二四・三五メートル(片側二車線)の市道と東西方向の右とほぼ同じ幅員の市道とが交差する交差点南側横断歩道上であり、右南北道路は、幅員〇・九五メートルの中央分離帯と、その両側に各七・七メートルの車道と各四メートルの歩道からなり、右中央分離帯は高さ〇・二メートルでその中央に高さ〇・八メートルの鉄柵が設けられている。
2 本件交差点は信号により整理されており、右横断歩道には歩行者用の信号が設置されており、現場付近は街路灯や近くの商店街の灯りで割合に明るく、かつ、見とおしのよい、交通ひんばんな舗装のされた市街地道路であり、毎時五〇キロメートルの速度制限がなされている。
3 被告土田はタクシーである被告車を運転して南北道路を北進し(走行速度は不明)、本件事故現場の手前約一三・八メートルの地点に差しかかつたところ、前記横断歩道(長さ約一六・三五メートル)の東側歩道側から西に約一一・七五メートルの地点を西に向つて走行中の訴外ちいを発見し、危険を感じ、ブレーキをかけてハンドルを左に切つたが間に合わず、同訴外人に衝突し、約六・七メートル走行して停止した。以上の事実を認めることができ、右認定の事実によれば、被告土田が訴外ちいを発見したときには、同訴外人はすでに前記横断歩道を西に向つて約一〇分の七の地点まで歩行してきていたのであるから、被告土田は前方を注視していればもつと早期に同訴外人を発見することが可能であつたものというべきであるが、それはしばらく措くとしても、本件交差点付近は交通のひんばんな道路であつたことを考えると、当事者間に争いのない七四歳余の訴外ちいが右衝突地点まで歩行してくるのに、もし仮に、南北道路の信号が青で東西道路の信号が赤であるとするならば、南北道路の反対車線上の横断歩道を歩行中の訴外ちいのために、北から南に向け走行してくる車両が一時停止するなどして、一時的にも車両の流れに渋滞が生ずることが考えられるのに、本件においては、そのような車の渋滞が生じたことの証拠はなく、また、原告本人木村利秋尋問の結果によると、訴外ちいは生前、その息子の原告木村利秋に対し、「本件事故当時は青信号で横断していた。」旨話していたことが認められる。
この点に関し、前掲乙第一号証(本件実況見分調書)の中で、立会人として、被告土田は、当初、中央分離帯寄りの車線を北進中、前に追越した普通乗用車が右折すると判断したので、本件事故現場の手前約三八メートルの地点で左に進路を変更し、そこから約二四・二メートル走行した地点で、前記一三・七メートル先の横断歩道を走行中の訴外ちいを発見した旨指示説明しており、被告土田の言わんとするところは、これを要するに、南北道路の信号は青であつたとするものの如くである。しかしながら、右説明するところからは、被告車と被告車を追越した車両との距離はそんなに離れておらず、右の追越車が本件横断歩道を通過した直後に被告車も右横断歩道に達したものと解するほかはないのであるが、前記認定の被告土田が始めて発見した訴外ちいの横断歩道上の位置からすると、被告土田の説明する先行車が果して存在したかどうかは甚だ疑問であつて、右説明からは被告土田の進行方向の信号が青であつたとまでは認めることができない。
また、証人長野祐二の証言によると、同証人は本件事故発生の際、事故現場の実況見分をした警察官であり、当時、被告車に乗つていた乗客は右警察官に対し、本件衝突事故が発生して被告車が前方で停止した時点で進行方向の信号を見たとき、それは青であつた旨の供述をしていたもののようであることが窺われるが、一方、同証人は、信号の表示に関する本件事故関係者の供述は互に相反していて、いずれの供述が正しかつたかは断定できなかつた旨証言していることを合わせ考えると、右乗客の供述をもつて、直ちに、被告車進行の南北方向の信号が青であつたことの資料とはなし難い。
以上説示するところを総合して考察すると、訴外ちいが横断歩道を歩行していたときは、少なくとも東西方向の交差点内の信号は青を表示していたものと認めるのが相当であり、そうだとすると、被告土田の進行していた南北方向の信号は赤を示していたことになる。
右認定の事実によれば、被告土田は信号を無視していたばかりでなく、前方を十分に注視していなかつたことは明らかであつて、同被告にこれらの注意義務を怠つた過失があるものというべきであり、次に、被告会社が被告車を自己のために運行の用に供していたことは当事者間に争いがないので、被告らは本件事故によつて生じた損害を賠償する義務があるものといわなければならない。
被告会社は自賠法三条但書により免責せらるべき旨主張するけれども、前記のとおり被告土田に過失が認められる以上、被告会社の右抗弁は採用することができない。
二 そこで、損害につき検討する。
1 因果関係の存否等について
成立に争いのない甲第七ないし第一四号証、証人野村雅則、同佐藤三郎の各証言を総合すると、訴外ちいは本件事故により主張の傷害を受け、別紙のとおり昭和四九年六月一九日から同年一一月三〇日まで入院治療を受け(入院日数一七二日)、同年一一月末日頃歩行も、また坐ることもでき、入院の必要もなくなつたので、同年一二月一日から昭和五〇年七月一四日まで佐藤病院に通院治療を受けたが(実日数二二六日中一七〇日)、右治療中の七月初め頃急性肝炎を併発したため、別紙のとおり名古屋保健衛生大学ばんたね病院に通院及び入院することになつた。しかるに右治療中、右肝炎が激症肝炎に移行し、同月二五日同病院において死亡するに至つたことが認められ、原告本人木村利秋の供述中、右認定に反し、訴外ちいのたつての希望により退院したとする部分は措信し難く、他に右認定に反する証拠はない。
右認定の事実によれば、原告の受けた傷害と本件事故との間に相当因果関係が存在することについてはこれを肯認することができるが、その後に発生した肝炎及びこれに基づく死亡と本件事故との間に相当因果関係が存在するか否かについては、さらに検討することとする。
証人野村雅則は、一般に肝炎の発病原因としては、その大多数が肝炎ウイルスによる感染によるものであり、その他には、抗生物質等薬剤によるもの、麻酔によるものが若干存在するものであること、また、交通事故等によつて身体が衰弱していたため、肝炎ウイルスによる感染を受け易い状態が作出されたということがないではないが、一般的には、交通事故と肝炎との間には直接の因果関係は存在しない旨証言し、証人佐藤三郎の証言によると、同証人は訴外ちいが肝炎に罹患する前、本件事故による傷害の治療に当つた医師であるが、同訴外人が佐藤病院を退院した当時、特に身体が衰弱していたことはなかつたし、右に記載の肝炎の原因となるような治療行為または薬物投与を受けたことがなかつたことが認められ、他に本件事故が肝炎の原因となつたことにつきこれを首肯するに足る証拠はない。
以上によれば、少なくとも、訴外ちいが本件事故によつて傷害を受けたことから肝炎に移行することは通常は起らないことであり、右肝炎と本件事故との相当因果関係については、これを否定的に解さざるをえず、したがつて、訴外ちいの死亡を前提とする葬儀関係費用及び慰藉料については、本件事故と相当因果関係のある損害としてこれを認めることはできない。
2 傷害による慰藉料等について
本件事故の態様、訴外ちいの受けた傷害の部位程度、治療の経過、同訴外人の年齢、その他諸般の事情を考え合わせると、同訴外人の受けた精神的苦痛を慰藉するものとしては金一七〇万円をもつて相当とする。
よつて、同訴外人は被告らに対し、右金一七〇万円の損害賠償請求権を取得したものといわなければならない。
ところで、原告らが訴外ちいの子であることは当事者間に争いがなく、同訴外人の死亡によつて原告らが相続人として二分の一の相続分に従つて前主の地位を承継したことについては当事者間に明らかに争いがないので、右事実によれば、原告らはそれぞれ金八五万円の損害賠償請求権を取得したことになる。
被告らは、訴外ちいにも過失があつた旨主張するけれども、前記認定の本件事故の態様に照らして、同訴外人に過失があつたものということはできない。
3 弁護士費用について
本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らし、原告らが被告に対し本件事故による損害として賠償を求めうる弁護士費用の額はそれぞれ金八万五〇〇〇円とするのが相当である。
三 以上説示のとおりであつて、原告らの本訴請求はそれぞれ金九三万五〇〇〇円及び弁護士費用を除く各内金八五万円に対する被告会社については本件事故の後である昭和五一年八月一八日から、被告土田については同じく本件事故の後である同月一九日から、弁護士費用である各内金八万五〇〇〇円に対する本判決言渡の日の翌日から右支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 白川芳澄)
別紙 治療経過
(1) 昭和四九年六月一二日から同年八月一三日まで六三日間
日比外科病院に入院
(2) 同年八月一三日から同年一一月三〇日まで一一〇日間
佐藤病院に入院
(3) 同年一二月一日から昭和五〇年七月一四日まで二二六日間
右病院に通院(実日数一七〇日)
(4) 昭和五〇年七月一四日
名古屋保健衛生大学ばんたね病院に通院
(5) 同年七月一五日から同月二五日まで一一日間
右病院に入院